朝鮮通信使とは、秀吉の朝鮮出兵により関係が悪化してしまった朝鮮との関係を
   修復する為に、家康が招待して1607年から始めた国家行事である。 1811年までに12回実施された。

昔の通信使は最初の入港地を何故対馬西岸の「佐須奈」「鰐浦」にしたのだろうか?
現地とチャートとをにらみながら 実感としてそんな事に気付きました。手漕ぎ舟の時代には 対馬に辿り着く前に、対馬海流に流されてしまったら助かったとしても鳥取や島根辺りに漂着するので、その当時は対馬西岸に必死に食らいついたのしょうか?)

佐須奈港係留
佐須奈・やまねこの糞発見
佐須奈・番所の井戸跡

鰐浦沖合いの延々と続く浅瀬を見て・・・・。波や霧でも出たら レーダーもGPSもチャートも無い時代の航海者達は、絶対絶命だったろうなー と感じました。  (朝鮮通信使遭難の慰霊碑が、韓国が見える丘に立っていた。)

昔は 舟が丘を登ったという珍しい所が在りました。

小船越

入り江と入り江の距離(昔は30M位)を 舟ごと丘超えしたそうです。 美津島町の「小船越」という所でした。

対馬の地図を眺めると・・・万関橋が作られる以前に 対馬東岸から浅茅湾に抜けるのに、手漕ぎ舟で遠回りしてはおれないので、昔の人の素晴らしい知恵だったと思った。

厳原の朝鮮通信使碑前にて記念撮影

日本海軍の戦術も大したもので 島を切り割って(?) 艦船が浅茅湾(あそうわん)から日本海にも 朝鮮海峡のどちらにも出撃できるようにした跡(万関橋)を、ヨットで通過してみた。 巾が狭いので漁船とすれ違う時には大変緊張した。対馬と下対馬とを結ぶ只一本の橋「万関橋」は、車で交通ラッシュでした。

つしま山猫を見る事ができました。

山に戻してやりたくても 生意気にもエイズに罹っているそうです。

対馬の人は とても親切でした。コンビニでたくさんの買い物を済まして・・・タクシーを尋ねたら すぐに呼んでくれる素振りでしたが 親切にも店の車で送って貰いました。  

タクシーは隣の集落から呼ばねば来ないそうです。(佐須奈)
「しまねこ」や「小船越」の見学も 島の人の車で案内して頂きました。
大きなイカの差し入れも頂きました。(刺身にして食べました。)釣りたての「あらかぶ」を 夏休み中の少年に貰いました。(味噌汁にしました。)
漁港では 殆どの所で氷の代金は受け取って貰えずタダでした。 水も自由に使わせて頂きました。

万関橋

各地では 水シャワーで涼を味わいました。
なかでも 五島・野崎島では島民三人と700匹の鹿だけと聞いたので、昼間から真っ裸で水シャワー。 誰も見てはいないのに、気恥ずかしい感じでした。

定年 万歳でした。

途中10号台風に出会いましたが誰も急いで帰る必要もなく 浅茅湾に舞い戻ってのんびり避難しました。
することも無いので空港近くの「グリーンピアつしま」に居り浸りで(船から徒歩10分) 風呂に入ったり 食事をしたりして足止め二泊を楽しみました。

和多都美神社(海の神様)
台風避難−竹敷湾

対馬は韓国経済と直結していました。
一昔前は 日本の漁船が魚を沖買いして問題になっていたが 今は 韓国漁船が厳原港に直接荷揚げしていました。  水と氷を積み込んだら又すぐに出て行くようでした。
魚は、厳原からは福岡方面にフェリーで直送しているみたいでした。

北朝鮮との国交正常化が実現したら、対馬は益々重要な経済交流の窓口になりそうでした。
街中にハングル文字が氾濫している割には、読み書き話ができる人が少ない感じでした。韓国人も日本語が話せないみたいでした。 この辺が問題かな?

対馬・宗家の菩提寺「万松院」を訪ねて 当時を偲びました。
秀吉と朝鮮との狭間にあって 戦争回避の為に双方に対して公文書の改ざんまで手掛けたそうですが その時のニセ印も見る事ができました。宗家の悲しい宿命と生き伸びる為の逞しい策略とを感じ取りました。

韓国の外語大学生が対馬の海岸清掃に来るようになったそうです。  

昨年から300人規模。 今年は島の中学生もジョインするそうです。
そもそものキッカケは 役場に駐在している韓国の人が、HPに対馬の海岸線汚染の状況をレポートしたら 韓国の学生たちが動かされたらしいです。対馬の西海岸を北上中海岸線が妙に白く見えたので 双眼鏡で覗いたら一面が発砲スチロール類でした。  海岸沿いには道が無いので清掃するにも船で接近しなければならないので 大変な作業になりそうでした。
日本の学生たちも一緒に参加できたら 国際的にも、素晴らしい環境保全活動に発展しそうな感じでした。

旅の終わりに 8/6有田陶器の博物館(九州陶磁文化館)と最新作の商品を扱っている有田焼卸団地とを見学しました。  そして陶祖と称されている「李参平碑」も訪ねました。  

実は 彼ら陶工たちこそ、秀吉たちによって朝鮮から拉致された被害者でした。朝鮮通信使は、1607年から1811までに、12回来日したが3回までは、拉致された同胞を連れ帰る狙いがあったらしいです。今回の「朝鮮通信使の足跡めぐり」の旅は、秀吉の朝鮮出兵との関わり抜きには語れない訳で、平戸・三河内・有田・その他の地に、朝鮮から連れて来られた陶工の人達(拉致被害者)との歴史的な関係にも、改めて気付かせて頂いた。わが国の昔の悪事すべてを北朝鮮に真似られているみたいですが、一日も早く国交正常化を実現して、正常な隣国関係に戻って欲しいと願いながら、今回のレポートを締めくくります。 

有田・陶祖李参平碑.

取り留めが無いレポートになりましたが、今回は今の私に残されている(?)気力・体力・耐力・知力・好奇心等のすべてを総動 員したような気がしています。 病み上がりの精だと思いたいが やはり膝の瞬発力に不安を感じる場面にも遭遇しました。 
40度くらいヒールして荷崩れがあったのでキャビンに飛び込んだら 自分が飛ばされてしまいました。
足らざるところは 友人二人に支えられて 何とかこの旅を乗り切る事ができました。
感謝感謝です。

これからもう一度体を鍛え直して 来年も又どこかへ出掛けてみたいと思っています。
初めての対馬は 私にとって目新しく とても素晴らしい所でした。皆さんも 是非一度お出かけ下さい!

ヨット「ふげん」による 対馬一周クルージング(64才の仲間三人組) 

(7/18〜8/7までの出入港先の記録は 資料−1を参照下さい。)
クルージングの主題は 1600年代の「朝鮮通信使の足跡巡り」(対馬と壱岐該当分)でした。 (当時の通信使が寄港した港は 資料−2を参照下さい。)
尚 今回立ち寄った各寄港地の連絡先を 資料−3に纏めたので 要すれば活用下さい。