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朝鮮通信使とは、秀吉の朝鮮出兵により関係が悪化してしまった朝鮮との関係を |
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昔の通信使は最初の入港地を何故対馬西岸の「佐須奈」「鰐浦」にしたのだろうか? |
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佐須奈港係留
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| 佐須奈・やまねこの糞発見 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 佐須奈・番所の井戸跡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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鰐浦沖合いの延々と続く浅瀬を見て・・・・。波や霧でも出たら レーダーもGPSもチャートも無い時代の航海者達は、絶対絶命だったろうなー と感じました。 (朝鮮通信使遭難の慰霊碑が、韓国が見える丘に立っていた。) |
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昔は 舟が丘を登ったという珍しい所が在りました。 |
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| 小船越 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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入り江と入り江の距離(昔は30M位)を 舟ごと丘超えしたそうです。 美津島町の「小船越」という所でした。 対馬の地図を眺めると・・・万関橋が作られる以前に 対馬東岸から浅茅湾に抜けるのに、手漕ぎ舟で遠回りしてはおれないので、昔の人の素晴らしい知恵だったと思った。 |
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| 厳原の朝鮮通信使碑前にて記念撮影 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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日本海軍の戦術も大したもので 島を切り割って(?) 艦船が浅茅湾(あそうわん)から日本海にも 朝鮮海峡のどちらにも出撃できるようにした跡(万関橋)を、ヨットで通過してみた。 巾が狭いので漁船とすれ違う時には大変緊張した。対馬と下対馬とを結ぶ只一本の橋「万関橋」は、車で交通ラッシュでした。 |
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つしま山猫を見る事ができました。 山に戻してやりたくても 生意気にもエイズに罹っているそうです。 |
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対馬の人は とても親切でした。コンビニでたくさんの買い物を済まして・・・タクシーを尋ねたら すぐに呼んでくれる素振りでしたが 親切にも店の車で送って貰いました。 タクシーは隣の集落から呼ばねば来ないそうです。(佐須奈) |
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万関橋 |
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各地では 水シャワーで涼を味わいました。 |
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| 定年 万歳でした。 |
途中10号台風に出会いましたが誰も急いで帰る必要もなく 浅茅湾に舞い戻ってのんびり避難しました。 |
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| 和多都美神社(海の神様) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 台風避難−竹敷湾 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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対馬は韓国経済と直結していました。 |
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| 北朝鮮との国交正常化が実現したら、対馬は益々重要な経済交流の窓口になりそうでした。 街中にハングル文字が氾濫している割には、読み書き話ができる人が少ない感じでした。韓国人も日本語が話せないみたいでした。 この辺が問題かな? |
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対馬・宗家の菩提寺「万松院」を訪ねて 当時を偲びました。 |
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韓国の外語大学生が対馬の海岸清掃に来るようになったそうです。 昨年から300人規模。 今年は島の中学生もジョインするそうです。 |
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旅の終わりに 8/6有田陶器の博物館(九州陶磁文化館)と最新作の商品を扱っている有田焼卸団地とを見学しました。 そして陶祖と称されている「李参平碑」も訪ねました。 実は 彼ら陶工たちこそ、秀吉たちによって朝鮮から拉致された被害者でした。朝鮮通信使は、1607年から1811までに、12回来日したが3回までは、拉致された同胞を連れ帰る狙いがあったらしいです。今回の「朝鮮通信使の足跡めぐり」の旅は、秀吉の朝鮮出兵との関わり抜きには語れない訳で、平戸・三河内・有田・その他の地に、朝鮮から連れて来られた陶工の人達(拉致被害者)との歴史的な関係にも、改めて気付かせて頂いた。わが国の昔の悪事すべてを北朝鮮に真似られているみたいですが、一日も早く国交正常化を実現して、正常な隣国関係に戻って欲しいと願いながら、今回のレポートを締めくくります。 |
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有田・陶祖李参平碑. |
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取り留めが無いレポートになりましたが、今回は今の私に残されている(?)気力・体力・耐力・知力・好奇心等のすべてを総動 員したような気がしています。 病み上がりの精だと思いたいが やはり膝の瞬発力に不安を感じる場面にも遭遇しました。 これからもう一度体を鍛え直して 来年も又どこかへ出掛けてみたいと思っています。 |
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ヨット「ふげん」による 対馬一周クルージング(64才の仲間三人組) (7/18〜8/7までの出入港先の記録は 資料−1を参照下さい。) |
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